Cuando florezca el chuño

Cuando florezca el chuño。K’ala Marka の代表曲で、アンデス音楽を演奏したり聴いたりする人なら、ほとんどが知っている曲。路上でペルー人らが演奏していることも多いので、一般にもタイトルは知らなくても広く知られている曲なんじゃないかと思います。

今回の Cosquín en Japón 2012 でも、多くのグループが演奏していました。そして、とあるグループの演奏のとき、司会の飯田さんから長めのコメント。

人から聞いた話だけど、理屈っぽい話で申し訳ないのだけど、このチューニョってのは乾燥させたジャガイモで、ここから花が咲くことは無い。普通のジャガイモは、春になれば芽が出ていずれは花が咲く。だから、タイトルを邦訳するときに「ジャガイモの花が咲くとき」じゃまずいんじゃないの?

おおよそ要約するとこんな内容。思わず拍手喝采して「その通り!」と叫びそうになりました。ずっと私が抱いていた違和感、つまり「チューニョはチューニョであって、ジャガイモじゃない!」という思いを、Cosquín en Japón の司会のマイクを通じて述べてくれたのは嬉しかった反面、本当は私たちがちゃんと後輩らに指摘して行かなければいけなかったのだなという反省の思いも感じました。

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ジャガイモの花

La flor de potato. Some rights reserved by chausinho

K’ala Marka がこの曲を発表したのが1991年。日本国内で耳にするようになったのが1992年頃だったでしょうか。ちょうど私が大学生活を送っていた頃で、同期のグループが演奏するというので、その演奏スタンスに対して議論をしたことを覚えています。1つはEm(ホ短調)で演奏しようとしていたこと。元調のGm(ト短調)でないと出せない雰囲気があるよと強弁したように思います(いまはAm(イ短調)で演奏するのがメジャーみたいですね)。そしてもう1つが、チューニョなのかジャガイモなのかの解釈にも通じる、ちょっと見慣れない florezca という活用についてでした。

florezca というのは、florecer (花が咲く)の接続法現在三人称単数形。接続法ってなんじゃらほい、ってことなんですが、英語の仮定法みたいなもんだと思ってもらえれば(厳密には同じではないですが)よいかなと思います。この場合、起こりえないことを示すために、接続法が使われている、その起こりえないことってのが「チューニョに花が咲くこと」であるわけです。

チューニョは、簡単に言えばフリーズドライのジャガイモ。寒冷で乾燥したアルティプラーノでは、夜中に凍らせたジャガイモを昼間踏みつけて水分を抜きまた夜凍らせる、これを繰り返すことでフリーズドライ化することができます。日本でも寒天作りで同じようなことが行われています。このチューニョはカラカラのカサカサで、春に畑に蒔いても芽が出ることはありません。チューニョに花が咲くことはありません。だから、「チューニョに花が咲くとき」は絶対に訪れないわけです。チューニョにもし本当に花が咲くならば接続法ではなく直説法の florece が使われるはずですね。

コンニャクイモからは芽が出て花が咲くけど、こんにゃくからは芽は出ないし決して花が咲かないのに似てるかな。似ていないか。

ここまで考えると(現地の人たちはここまで考えるまでも無く普通に以下の結論にたどり着くわけですが)、この歌は、二度と戻らない恋人を待ち続けるという、絶望的な境遇の歌だということがわかります。Jumampi とか、Qanwan とかのアイマラ語やケチュア語がわからなくても、だいたいそんな結論に至ると思います。「ジャガイモの花が咲くとき」という邦題からはとてもこのようには解釈できません。チューニョであることが重要なんです。

大学生当時、これは接続法だよ、英語の仮定法みたいなものだよ、チューニョには絶対に花が咲かないから「ジャガイモ」の訳ではまずいと思うよと、強弁すればよかったのかもしれません。定かではありませんが、彼らが「ジャガイモの花が咲くとき」と訳していたのが現在の状況に少なからず影響を及ぼしている、そう考えると、やはり責任の一端を感じてしまうのです。

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ここでまたしつこく理屈っぽい話を繰り返しているのは、いまの若者たちの演奏が気に入らないからでも、この曲が嫌いだからでもなんでもありません。Cuando florezca el chuño 、この曲が大好きだからです。